理念

序文

わたしたちは、よりよい教育を求める親、教師、一般市民です。立場も活動もさまざまですが、わたしたちはみな、子どもたちの、人類の、そしてこの母なる地球の未来に切実なる関心を寄せています。わたしたちは、日本の未来を創るのは子どもたちであり、子どもたちを育てる教育が、日本にとってだけでなく、世界にとっても、どれほど決定的に重要であるかを痛感しています。  いま、いじめ、登校拒否、校内暴力、非行、体罰、無気力、自殺など、教育の中で深刻なさまざまな問題が出てきているが、政界財界の腐敗、若者の自己疎外、犯罪、テロ、家庭の崩壊などもすべて教育の問題と深く関わりあっています。 これは、大人たち自身の生き方の問題であるとともに、さらに深い現代文明の危機のあらわれなのです。わたしたちは、経済発展や生産性の向上を第一の目的とし、物質的な豊かさばかりを追い求め、人間性を育てることをおろそかにしてきました。そのため、生活は豊かになったにもかかわらず、いちばん大切な人間的なあたたかさやこころの豊かさを失い、孤独感やむなしさを感じている人も多いのです。  わたしたちは、地球上のすべてのものがつながりあっていることを忘れ、命への畏敬を失い、産業社会的な価値観や科学技術信仰のみにとらわれてきました。そのため、競争にあけくれて協力することを忘れ、資源の枯渇をかえりみず消費に走り、人間的なかかわりや信頼感よりも管理・支配に頼ってきました。その結果、大気汚染、海洋汚染など、地球規模での自然破壊が進み、病んだ生態系を生み出しています。  そのため、本来人間を幸せにするはずの科学技術の発展が、人類と地球の破滅を招くという皮肉な結末を迎えようとしています。このように、病んだ教育と病んだ生態系―その根源は、同じところにあります。それは、人間性やこころを見失った、この現代文明そのものの危機なのです。 このような文明の危機を迎えたいま、わたしたちは、人類史的な転換期に立つっています。この危機は、現代文明を支えてきた世界観・人間観・教育観をそのままにして、技術的に解決できるものではありません。人間や教育をみる見方・考え方そのものを転換しなければなりません。混迷の状態にあるわたしたちにとって、今ほど、新しい教育の理念、新しい教育の方向性が求められる時はありません。しかし同時に、いまだ出会っていない日本中の多くの人たちが、同じような新しい方向へ向けてすでに歩みはじめているのです。  わたしたちはいま、現代日本の教育の危機を乗り越える方向性を広く共有できるつながりを求めて、ここにホリスティクな教育理念を提唱します。  教師も親も、もうお互いに批判しあうのはやめようではありませんか。よりよい生き方、よりよい教育を願う気持ちは、みんな同じなのです。すべての人が、いま、自分の立場で何ができるか、という発想を持ち、行動を起こす必要があります。わたしたちは、いまこそ、ともに手をたずさえ、創造的な活動を展開していこうではありませんか。

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1.ホリスティックな見方・考え方

 すべての具体的な教育のいとなみが出てくる源には、ひとつの人間観・世界観があります。教育の変革は、一人ひとりが自分のものの見方・考え方を問い直し、それを転換していくことから始まります。
 わたしたちが何かをしようとするとき、自分や相手に対して、必ずある理解を持っています。そしてその理解は、何らかのものの見方・考え方によって支えられています。いま自分たちが持っているものの見方・考え方を問い直し、それを転換していくことが、まず何よりも大切なことなのです。 その方向は、命を大切にするホリスティックな見方・考え方ではないでしょうか。 大宇宙、地球生態系、人間という小宇宙―これらはみな、ひとつのまとまりをもった全体です。同時に、人間は地球生態系の、地球生態系は宇宙の一部であり、宇宙のなかのすべてのもの、地球生態系のなかのすべてのものは、つながりあっています。
 それゆえ、存在するすべてのものは、たとえそれひとつでは意味のないように見えても、大きなつながりのなかでは意味を持っており、不必要なものは何もありません。すべては全体のなかの一部なのです。さまざまなものをつつみこみ、活かし、その一面性、断片性を補い、全体のなかでつりあいをとろうとするのです。
 また、それだけで完全であり、他の存在を必要としないものは何もありません。すべてのものは他の存在によって支えられ、活かされています。そして、すべてのものは他の存在を支え、活かしています。  教育にはさまざまな理論や技法があります。それらはすべて、複雑多様な豊かさを持ったこの世界をひとつの視点から見たものです。学びにはさまざまな道があり、そのすべてを活かし、統合していくことこそ、必要です。
 つまり、ホリスティックな教育は伝統的な教育を否定するものではなく、それらをすべてつつみこみ、一つひとつの教育理論や技法の断片性を補うことで全体的な調和をつくりだそうとするのです。
 すべての生命現象の本質は多様性ですが、「つつみこむ」とは、ひとつのものが巨大化され、他をのみこんでしまうことではありません。そうではなく、全体との調和のなかで、すべてがそのままで活かされることです。つまり、多様化が排除されるのではなく、全体のなかで多様性が多様性のままに活かされることなのです。たとえ部分的には葛藤があっても、全体として見ると、その葛藤している部分も、もっと大きな調和の中に活かされているのがわかります。 宇宙の生命現象は、たえず動き、変化していきます。固定化したものは何もありません。ゆらぎ、変化するプロセスそのものが、生きるということなのです。
 ゆがみは、つながりを見失うこと、調和をくずすこと、固定的、絶対的なものを求めることから生まれてきます。
 わたしたちは、現実社会を否定して、この現実社会を崩壊したときに、新しい至福の世界が生まれるとは考えません。現実社会のなかでこそ、わたしたちは生き、成長し、現実社会をよりよいものに変革していくことができるのです。  また、わたしたちは、これまでの文明を否定しようとするのではありません。人類の築きあげてきたものを破壊しようとするのではありません。むしろ、大きないのちのつながりのなかで、人類の遺産をよみがえらせ、新しい視野のなかで活かそうとするのです。否定し、破壊すべきものは、何もありません。すべてを活かし、全体的な調和を取り戻そうとするだけなのです。
 わたしたちは、自分のこれまでのものの見方・考え方を絶対視したり、そこに安住したりせずに、新しい見方・考え方に対して自分の心を開いていくことが必要です。 しかし、新しい見方・考え方を知り、それに共感すれば、すぐにいままでの古い考え方が新しいものに変わってしまうかといえば、かならずしもそうはいきません。
 なぜなら、いままでの見方・考え方は、わたしたち一人ひとりの潜在意識の奥深くに根を張っているからです。それゆえ、たんなるホリスティックな教育理念の共感にとどまらず、自分の潜在意識という心の深みにまで目を向けていく必要があります。
 新しい見方・考え方に変わることは、自分のあり方の全体が変わることであり、ひとつの新しい目覚めなのです。

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2.生命への畏敬

 すべての人は、身体、心、知性などだけでなく、大自然や宇宙とのつながりを持っています。人間のもっとも大切な、もっとも価値ある部分は、一人ひとりの生命の奥深くにはたらいている根源的な力です。わたしたちは、これを<いのち>と呼びます。
 45億年前の地球の誕生、あるいはさらにもっと遠い宇宙の誕生以来、生命は一貫した創造的進化を遂げてきました。また、地球生態圏の全体としての調和は、地球誕生以来、ずっと一貫して保たれてきました。このような事実を考える時、わたしたちは、生命の大いなる連鎖をつなぎあわせ、調和を保ち、しかも多様性・複雑性を増しながら全体を更新していくダイナミックな<はたらき>そのものを想定することができます。わたしたちは、その宇宙の創造原理としての<はたらき>を<いのち>と呼びます。
 個々の生命体は、その<いのち>が現象面に形をとって現れてきたものです。個々の生命体の奥深くにはたらいているこの<いのち>は、個々の生命体の中に流れる生命を超え、宇宙の大いなる<いのち>とつながっています。
 わたしたちのなかにはたらいている<いのち>は、根源的にひとつの宇宙の<いのち>とつながっています。わたしたちは、大いなるのつながりのなかに存在するのであり、わたしたちがと言うとき、個々ばらばらな個体の生命がつながりあおうとするのではありません。
 わたしたち、すべての人は、人間の形をとった<いのち>であり、それを<精神性>という言葉で表現することもあります。わたしたちは、一人ひとりの内なる真の自己に目覚める時、それが宇宙の大いなる<いのち>と結びついていることを洞察できます。生の価値や意味は、この<つながり>に目覚め、それを自覚するところから生まれます。
 <いのち>という次元から見る時、すべての人は、生命の神秘を秘めた、かけがえのない尊い存在です。<いのち>への畏敬、一人ひとりの人間存在に対する無条件の尊敬が、教育の原点なのです。
 わたしたちは、生まれ、生き、そして死んでいきます。この生命だけが、つまり、この身体だけがすべてであると思うならば、いつか死によって失われるわたしたちの人生は、むなしいものになってしまいます。しかし、個体の生命を超えた<いのち>という次元から見るとき、生も死も、ともに意味のあるものとして認めることができます。いかによく生きるかということは、いかによく死ぬかということなのです。
 わたしたち、一人ひとりのなかに与えられているこの<いのち>の神秘に目覚め、その<いのち>への畏敬を実感するとき、わたしたちは、真の充実感と安らぎを感じます。そして、<いのち>は全体としてひとつであり、すべての存在がつながっていることを知ります。
 このような<いのち>の実感を失うとき、わたしたちは、死によって失われる自分の生命のむなしさを感じ、生きることの意味や、こころの喜びを見失い、そのむなしさを埋め合わせるために、限りない物質的豊かさ、グルメ・レジャーなどの一時的快楽、地位、名声、自分の優越性など、代わりのものを求め、ほんとうの自分を見失ってしまします。
 教育、医療、企業、行政、政治など、すべての人間のいとなみが<いのち>への畏敬から始まる時、その時こそ、苦しんでいる人の痛みに共感し、心のあたたかさを表現するために、深く思考し判断する創造的知性と技術が活かされるでしょう。
 すべてがつながりあっているのですから、自分が変われば全体が変わることになります。自分が喜びを感じれば、まわりに喜びを伝えることになります。このように、自分が変わることによって世界が変わるという希望を持つことができます。
 わたしたちは、この世界に_自己に対して、他人に対して、そしてこの地球に対して、贈り物をするために生まれてきます。

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3.違いと出会い、違いを生かす

 何十億年という進化のプロセスは、多種多様の生命の形を生み出してきました。生命は多様性であるところにその本質があります。すべての人は独自的な存在だからこそ、かけがえがないのです。一人ひとりは違っているからこそ、尊いのです。したがって、人間の多様性を受け容れ、尊重しあうことは、一人ひとりの存在を活かすことなのです。わたしたちは、全体を否定する自己中心主義と、個人を否定し埋没させる全体主義の両極を揺れ動いてきました。こういう考え方の根底には、人間は一人ひとりバラバラな存在で、自己と他者は対立するものであり、そういう人間が集まって全体をつくっている、という発想がありました。
 ホリスティックな考え方では、すべての存在がつながりあい、支えあっていると考えます。一人ひとりの違いがあるからこそ、それぞれが自立しつつ、関わりあい、それぞれの違いを活かしあい補いあう相互依存関係が可能になるのです。 違いがあることが豊かさであり、違いと出会う時に、新しい気づきが生まれます。つまり、画一的で同質的な集団よりも、多様で異質性の高い集団のほうが、長期的に見ればもっとも安定的で創造的なのです。
 個性とは、相互補完的関係における多様性をいい、自立とは、孤立でもなく、依存でもなく、持ち味を活かしあい、足りないところはお互いに補いあう関係をつくりあげていく、相互補完的な状態をいいます。 ホリスティックな見方をすれば、一人ですべてのことができる完全な人間像を求める必要はありません。そういう人間像には、生き生きしたいのちの輝きも個性もなくなってしまうでしょう。

4.ホリスティックな人間観

 人間は、きわめて複雑で、微妙で、たえず変わっていく存在であり、すべてのものを含んだ全体的な存在です。人間は、無限ともいえるような能力を持っていますが、ホリスティックな観点に立つことによって、その潜在的な可能性を花開かせていくことができるのです。
 人間は、すべてのものをつつみこんだ一つの全体です。 一人ひとりの人間をたんに部分的、表面的に見るのではなく、身体、感情、思考、精神性などを含んだ重層的構造であり、さらにたえず成長し変容していく有機的存在としてみる必要があります。これがホリスティックな人間観なのです。 わたしたちはよく、他人に対してレッテルをはることによって、一人の人間の全体性を見落としてしまうことがあります。
 人間の価値は分析数量化することができません。評価は、つねに評価する人の価値観や枠組みが影響していることを自覚しておかねばなりません。
 これまでは目に見える価値ばかりを評価して、目に見えない価値をおろそかにしてきました。 ホリスティックな人間観は、人間の存在そのものに価値があると認め、個人の根源的な尊厳に基づいています。

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5.学ぶことは変わること

 学ぶとは、自分が変わることです。新しいことを学ぶと、世界が今までとは違ったように見えてきます。世界が違って見えると、自分の行動の仕方、生き方のスタイルが変わってきます。つまり、学ぶとは、自分と世界のかかわりが深まること、つながりが深まることなのです。
 学ぶとは、喜びを創造することです。喜びとは、新しい自己を発見する喜びを意味します。何かがかわり、何かに目覚め、何かができるようになり、何かに気づき、自分の意志で自分の行動、自分の価値観、自分の生き方を選びとり、その結果を自分で引き受けていく時、新しい自己が生まれます。
   学びは体験から生まれてきます。わたしたちは、さまざまなものと出会う体験から学びます。さまざまな感覚を使って世界に学ぼうとするとき、世界はその豊かな意味を明らかにしてくれます。 体験はダイナミックで、つねに変化し、成長をはぐくみます。
 教育の目的は、体験を通して、すこやかで自然な成長をうながすことであり、決して限定された断片的な知識を与えることではありません。生きた知識も、まことの知恵も、生きた体験から生まれてくるのです。
 自分と世界とのかかわりあいが質的に転換するような劇的な学びは、まったく予想しないような「出会い」と新しい「気づき」の体験から生まれます。 このような学びは、秩序よりもむしろ混純が、受動性よりもむしろ自発的活動性が、普遍性よりもむしろ特異性が、繰り返しよりもむしろ唯一性が、閉鎖性よりもむしろ解放性が、優位になるときに生まれます。 「出会い」や「気づき」はいつも思いがけないものなのです。 基礎的な知識の習得のというような、プログラム化された系統的な学びの場でも、このような「出会い」や「気づき」は尊重されなければなりません。
 教育とは、自然とふれあう体験を通して、自然界の不思議さに出会ういとなみです。 教育は、地域の経済的・社会的な生活を実地に体験することによって、社会のさまざまなはたらきに心を開くいとなみです。
 教育は、芸術にふれ、他者や書物と深い対話をかわし、時には静かに自己を見つめることによって、自分自身の内面世界との交わりへと導くいとなみです。深い友情、勇気、真実を求める心など、内なる自己を知ることなしには、外的なすべての知識はその意味を失います。
 学びのプロセスは、つねに全体的なものです。 各教科は、複雑多様な豊かさを持ったひとつの全体であるの現れを、ある一つの視点から見たものにすぎません。
 ホリスティックな教育は、さまざまな見方やさまざまな学び方を発展させ統合させて、よりよいものにしていきます。単に合理的、分析的・言語的な認識だけに片寄るのではなく、多様な感覚や認識力を統合的に活用します。つまり、左脳だけではなく、直感的・イメージ的・美的芸術的な右脳も活かす全脳的な学習をめざしています。 また、人間の知的あるいは技能的な側面だけでなく、身体的、社会的、道徳的、美的、創造的な側面、さらに精神性という側面も重視する。目に見える体験的な現実だけでなく、人間の内なるのはたらきや、宇宙<いのち>とのつながり、その神秘性も視野に入れます。

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6.ホリスティックなリーダー

 教師は、ホリスティックなリーダーです。ホリスティックなリーダーは、指導する者、教える者という意味ではありません。リーダーみずからが学ぶ喜びを感じながら、ほんとうの学びを体験している時、学習者の学びも促進されます。リーダーが自分自身の内面に生まれつつあるものに開かれている時、学習者と共に学び、共に創造するプロセスが生まれてきます。リーダーは学習者から学び、学習者もリーダーから学びます。
 学びは、真に人間的な出会いの中から生まれます。リーダーは、そのような学びの生まれる人間関係を創る者です。  リーダーは、その場その場で必要なものを直感的にとらえて、柔軟に行動すると共に、深く考慮された教育の方向性を持って実践していく必要があります。実践の結果は、見直し、とらえなおし、そして実践から学び、つねによりよいものに改善していく必要があります。
 学びの場、出会いの場は、学校だけにあるのではありません。家庭も、職場も、自然もすべて学びの場です。人生で出会うすべての人が教師であり、リーダーです。わたしたちは、すべての体験から学ぶことができます。人生そのものが学びの場、学校なのです。
 学ぶということは、いのちある限り、一生続くものです。

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7.真の自由

 真の自由とは、すべてのつながりのなかで、自分の行動、あり方、価値観などを自分の意志で選択し、決定し、自己責任を負うことです。人間は成功や失敗を通じて、自分で学んでいく権利があります。ここに「管理」か「自由」か、「自由」か「放任」かといった問題を解くカギがあります。 画一的な教育管理の反対は、自由な教育であると考えられてきました。その自由とは、拘束からの解放としての自由、いっさいの外的な限定を受けずに自分のやりたいようにできる自由を意味していました。つまり、束縛、ルール、押しつけ、干渉から解放される自由だったのです。
 このような自由は、他との相互作用・相互補完のつながりから、人が孤立していることが前提になっていました。しかしホリスティックな立場では、他の存在から孤立した個人は存在しない以上、そのような自由は存在しないことになります。
 人間を物のように管理・コントロールできるというのも、人間は何ものにも限定されない自由を持つというのも、共に幻想なのです。
 人間には、すべてのつながりのなかで、自分の行動、価値観などを自分の意志で選択し、自己決定し、その結果を自分で引き受ける根源的自由があります。 真に自立した人とは、適切な相互補完的な関係を結べる人であり、真に自由な人とは、つながりのなかへ開かれた人なのです。

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8.社会適応から共同創造

 教育の目的は、子供をいまある社会に適応させるだけではなく、ともに協力してよりよい社会へと変革していく人間を育てることにあります。 しばしば教育の目的は、社会への適応にあると考えられてきました。しかし、社会そのものはたえず変化し発展していくのですから、現在あるものへ適応するだけでは、人類の進化、社会の進化を促進することにはなりません。
 共に学びあい、共に協力しあい、新しいものを創造していく共同創造の関係をつくることこそが、これからの政治・社会へのかかわり方なのです。したがって、わたしたちは、社会から恩恵を受ける権利を持つと同時に、社会に対する大きな義務と責任を持っています。
 近代市民社会が、自己の利益を追求する孤立した個人の存在を前提とするならば、それはいま、根本的に転換する時を迎えています。もはや自己の利益は他者の不利になり、他者の利益は自己の不利になるとは考えられません。ホリスティックな世界においては、自己の利益は他者の利益につながり、他者の不利益は自己の不利益につながるからです。
 ホリスティックな立場では、自己は他のすべてとつながっており、相互補完的な関係にあると考えるので、自己の利益は究極的には一致するはずです。ですから、他と切り離された自己利益の追求から出発するのではなく、つながりの自覚を通して自他が共有する利益に目覚めようとします。それは、ともに豊かになっていく道を求めることです。
 わたしたちは、物質的な豊かさだけでなく、本質的に、心の喜び、心の充足、心のやすらぎなどの精神的な豊かさを求めています。そして、わたしたちは、他者とのつながりの自覚、共感的な理解、他者の要求に耳を傾ける力、他者の痛みを自分の痛みと感じる感受性を重視します。
 わたしたちは、そのような共感的な理解を持ちながら、間違っているものは間違っていると言える勇気、不正なものへの怒り、おかしいものはおかしいと感じる感性、まどわされることのない批判的な思考力、判断力・行動力などを大切にします。
 わたしたちは、少数者の意見にも耳を傾け、尊重します。そして、国家レベルでの中央集権ではなく、権限の多様なレベルへの分散、支配的な関係よりも協力的な関係、受け身ではなく自分から新しいものを創造していく行動力、などを大切にします。上から与えられるものに頼るのではなく、自分からつくりあげていこうとします。 わたしたちは、現実社会のなかで、今、ここで、自分に何ができるかを考え、つながりのなかで行動し、共に学び合おうとします。共に新しいものを生み出そうとする共同創造のかかわりは、喜びを生み出し、自分が変わることによってみんなが変わるという体験にもなっていくでしょう。

9.地球市民としての自覚

 わたしたちはみな、まちがいなく地球市民です。地球市民は、自分の利益や自国の利益だけでなく、地球の未来に対して責任を持ち、自分が果たすべき役割を自覚し、行動する必要があります。わたしたちは、地球規模での相互依存関係のなかに生きています。一つの問題、たとえば、海洋や大気の汚染の問題にしても、地球規模での相互関連を見ていかなければ、ほんとうに建設的な対処はできません。地球が一つの共同体になりつつある現在、わたしたちは、歴史上かつてないほど、さまざまに異なる文化や世界観に向き合っています。いまこそ、人間のいとなみの驚くべき多様性を積極的に認められるような教育が必要です。同時にわたしたちは、違いを違いと認め、多用性を承認すると共に、相互の開かれたコミュニケーションを通して、違いの奥にある普遍性を探ろうとしています。異なる文化が接触し、文化間の相互交流が深まっていく時には、一方が他方を完全に呑み込んでしまうのではなく、自他の文化のよさに学びながら、自文化を新たに構成していくことが必要です。すべての文化のなかには、人間としての普遍的な原理がはたらいています。その普遍性を見極めていくことが重要です。
 さまざまな文化の根底にある、すべての文化を貫いて流れている普遍性をさぐりあてていく時、その普遍性を独自の仕方で表現する文化の個性を保持したまま、多様な文化が共存できる可能性が生まれてきます。  地球時代の教育は、文化の違いを超えた、もっとも普遍的な人間らしさを求めるいとなみとなります。
 積極的に平和を創造していくためには、まず、心のなかに平和を創造しなければなりません。わたしたちは、人間の尊敬、自己尊重感、いのちの畏敬に基づき、人類と地球の未来のために、対立と争いがなぜ生じるかを深く理解し、平和を創造する道を探っていくことを決意します。

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10.母なる地球

  そのすべての生命とつながりあうわたしたちは、地球生命圏についての理解をうながす教育を求めます。地球上のすべての存在が支え合っていること、個人の幸せと「地球全体の幸せ」が深いところで一致すること、そして、わたしたち一人ひとりが担っている責任の深さと広さ、これらの自覚をうながす教育を求めます。教育は、エコロジカルな見方にしっかりと根ざしている必要があります。
 母なる地球というこの生命圏は、暗黒の宇宙空間にうかぶ生命のオアシスです。この地球に生きるすべてのものが、お互いに支え合っているひとつの生態系、ひとつの全体なのです。もし人類が地球で生きのびようとするならば、エコロジカルでしなやかな感性に基づく地球規模での相互協力が必要です。  わたしたちは、自然を開発すべき資源と見るのではなく、共存すべきものととらえ、人間と自然とのきずなを取り戻そうとします。意識ある生物としての人間は、いわばグローバル・ブレイン(地球生命圏の頭脳)として、地球生命圏という自らの身体に対して大きな責任を負っているのです。
 地球という生命圏についての学習は、生命維持の基本システム、エネルギー循環、生命連鎖、相互依存関係、生成進化のプロセスなどについて学びます。また、いま、地球にとって大きな問題である、オゾン層の破壊、地球温暖化、森林破壊、酸性雨、生物の種の減少、ゴミ問題、途上国問題、海洋汚染、砂漠化など、現実の問題の実態を知り、私たちに何ができるかを考えていくことが必要です。この学習はまた、自然科学だけでなく、政治、経済、文化、歴史、心理学、社会学、哲学などの分野も統合する総合的な学習となります。

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おわりに

 21世紀が近づくにつれて、わたしたちの社会のあらゆる領域で、根源的な転換が求められてきています。わたしたちはいま、学校制度を含めて、すべての社会制度や職業論理は歴史のある限られた時代のためにつくられていること、そして、今まさにその時代が閉じられようとしていることに、気づきはじめています。教育も今や、変わらなければならない時が来ました。
 来るべき時代の教育はホリスティックでなければなりません。ホリスティックな見方は、何よりもまず、この地球上の生きとし生けるものがすべて、無数の網の目で、深く、そして精妙につながりあっているという事実を受けとめることから始まります。このかけがえのない地球を視野にいれたまなざしで、目の前の現実を見ることが大切です。これからの教育は、地球共同体をいつくしむ気持ちではぐくんでいくものでなければなりません。
 また、ホリスティックな見方は人間の自己と世界に対する知のありかたを、合理的、論理的、言語的な見方だけに限ってしまうのではなく、もっと広く、直感や感情、からだ、想像力といった、人間の内に秘めた隠された力にまで光をあてようとしています。
 ホリスティックな教育は、人間という存在が、知識や技術だけでなく、意味を求める存在であると考えます。人間は、すこやかに成長していくなかで、自分の生きる意味を求めずにはいられません。生きている意味を十分にまっとうできる人間だけが、すこやかな社会をつくることができます。ホリスティックな教育は、一人ひとりが自分の内に持っている、生きる意味を求めようとする、もっとも大切な願いを満たしていこうとします。
 したがって、ホリスティックな教育は、ある特定のカリキュラムや方法ではありません。ホリスティックな教育は、21世紀を目の前にしたいま、個々の相違点を超えて、教育のいきずまりを打開する共通の方向を探ろうとするものです。
 一人ひとりの親や教師や一般市民は、このような方向をめざして、自分の置かれた場でさまざまな方法で努力しているのであり、その実践の方法や応用の仕方は、むしろ多様であるほうがよいのです。 一人ひとりが個性を活かして自分なりの実践方法を生み出し、その成果をわかちあうならば、その相互交流のなかから、きわめて急速によりよいものが生まれていくでしょう。 そして、このホリスティックな教育理念も、さらによりよいものに改善されていくでしょう。 未来は、わたしたちがいま、創造するものなのです。

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